2020.5.16
面の坂の歴史に思うこと……(その2)
今から10年ほど前になりますが、私が面の坂を案内してもらったお爺さんの
ことについてお話します。
その方は、会社を退職するまでは大手バス会社に勤務していたそうです。
退職後は、余生を晴耕雨読で過ごされているとのことでした。
初めてお会いした時もご年齢に関わらす明朗快活な様子が窺いとれました。
話は変わりますが、今でもこの面の坂の藪の中には無縁仏の墓石が至る所に
散乱して、苔むしていますが、お年寄りが若い頃、その無縁仏を不憫に思い
お寺の住職を呼んで供養したそうです。
その甲斐あって、その後の人生は平穏無事で、嫌なことは何も起こらなかったと
満面の笑顔で自慢していらっしゃったことが思い出されます….。
当時、この面の坂のことでは、この方にいろいろとお世話になりましたので
その翌年から母の命日の頃には、菓子折りをもって毎年、挨拶にお伺いして
おりました。
それから、4年ほど経った頃でしょうか?
この日も挨拶にお伺いしたら、奥さんからご主人の訃報を知らされました…。
奥さんの話によると、親戚の人と二人で温泉に行く途中、山道のカーブで
正面から来た対向車と正面衝突したそうで、数ヶ月間、自宅で病の床に伏した
あと他界されたとのことでした….。
ご冥福をお祈りすると同時に不幸な出来事がおこり残念でなりませんでした…。
これで、面の坂の史実を知りえる人はこの界隈には誰もいなくなってしまいました。
他界した私の父から伝え聞いたことは、面の坂で死刑にあった壇・樺島親子の
亡骸は、村人により地元に連れ帰えられ、手厚く葬られたと聞いております。
ですから、この場所は壇・樺島親子が悲境の死をとげた場所ではありますが、
悪霊が住む場所ではないはずなのに、お爺さんを守ってくれなかったのは
どうしてなんだろうと思います…..。
確かに、その事件以来、現代まで面の坂はハタモン場とか首切り坂と呼ばれ
地元では恐れられている場所だったことは否めません。
10数年前にも、藪の中に道幅一間ほどの薩摩街道が走っておりますが、その隣に
オシャレな家具屋ができましたが、そこも火事で焼けたことがあったようです。
ひょっとしたら、藪の中の他の場所の無縁仏か、他の時代の無縁仏の仕業かも
しれないなど考たりします…..。
面の坂の藪の中には、お年寄りが供養した無縁仏以外にも、墓石が散乱している
ところをみると、供養していない無縁仏がある筈です。
その土地(藪)は個人所有の土地と思われますが、供養ができないものだろうかと
以前から考えておりました。
地元の有志がいれば行動しやすいのになあ~と思います。
生前のお爺さんの話によると、面の坂の史実を知るための碑、或いは
案内板なるものを建ててもらうように瀬高町に掛け合ったことがあったらしいの
ですが、予算が逼迫していて実現しなかったと言っていらっしゃいましたが、
このことも実現したいと思っている今日この頃です。
Category: 壇洋一ブログ