壇・樺島家の歴史(5)
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時は1601年、関ヶ原の合戦後、西軍についた立花宗茂と誾千代は敗戦で柳川城を出て
加藤清正公の領地である熊本県の高瀬と腹赤村にそれぞれ蟄居させられました。
合戦後のこの時期は、まだまだ世の中に不穏な空気が流れていた時代でした。
壇・樺島両家は柳川城時代、立花宗茂と誾千代には並々ならぬ大変お世話になった
ことから、忠義精神で、百姓に身を隠し隠密で糧米を定期的に運んでいましたが、
ある夏の日、いつものように糧米を運んでいる途中、今の南関手前の関所で捕らえ
られてしまいました。
不穏分子による密告かもしれませんが知る由もありません。
今の柳川高校裏の水路の畔にある田中吉政像
当時、このことは大変な事件で、すぐさま関所から駿馬により柳川城の田中吉政に
知らされ、翌日、壇家・樺島家の親類縁者諸共、死罪に処せられた事件ですが、
壇・樺島家は地域土豪であり大庄屋だったので、多くの農民を束ねていたこともあり、
田中吉政にとっては地元有力者の謀反を許すと、大変なことになると考えたのでしょう。
そのような当時の大事件は、今も地域の人に語り継がれ、面の坂という本で伝えられて
います。
今回は両家が糧米を運んだ誾千代の蟄居先である腹赤村と宗茂公の高瀬までの距離を
歩いて、その大変さを体験してみようと思い立ちました。
歩く工程は腹赤町までの約34キロほどです。
腹赤町から高瀬までは徒歩で40分ほどかかるので断念しました。
みやま市吉井 面の坂(首切り坂は今でも不気味です)
北の関 関所近
今のみやま市瀬高町吉井から薩摩街道を通り、面の坂を登って山川町を過ぎ、北の関
松風の関所跡を通り、熊本県南関町へ。
南関を過ぎ山の麓をとおり20キロ先の腹赤村まではなだらかにくだる平野が広がっています。
松風の関所跡
南関の旧道 柳川領と肥後領の領境石
それにしても私は当時通ったであろう道を荷物を持たず歩きましたが、彼らは米屋や塩の
俵を人力車に乗せて運んだわけですから、それはそれは大変な労力を必要としたことでしょう。
本によると関所の取り締まりが厳しくない夕刻に出発して6~7時間の道のりですから
夜の23~24時に着いたのでしょう。
それから、誾千代の蟄居先の家の縁側で疲れを癒すための仮眠をとり、朝早く荷車を引き、
帰路についたと書かれています。
誾千代のお墓(腹赤町)
全工程の歩行距離は70キロほどに及びます。
それを命をかけて定期的に繰り返していた訳ですから頭が下がる思いです。
私が歩いたのは片道ですが、それでも三十数キロ歩くのは大変でした。
腹赤村(今の腹赤町)に着いた時には足には豆ができ筋肉疲労をおこして痛いやらで
疲れ切ってしまいました。
今回はできるだけ旧薩摩街道だろうと思われる道を通りましたので当時の雰囲気を感じ
取ることが出来ましたし、当時のことを考えたりと、とても良い経験になりました。
腹赤町では大変縁があった誾千代姫のお墓にお参りして、墓地の片隅でしばらく疲れを癒しました。
走行距離は34キロを休憩も含め7時間20分ほどかかりました。
帰りは歩く力もないので近くの駅までタクシーを呼び、鈍行列車でみやま市まで帰って来ました。
歴史書によると薩摩街道には二つの関所があり、取り締まりが厳しい三池道と比較的
取り締まりが厳しくない南関道があったようですが、糧米を運ぶときは南関道を取って、
帰路は整備された三池道を通って帰路についたようです。
私は万全を期してウォーキング用のスニーカーにリュックでしたが、当時は靴などなかったわけで、
ワラジで、立花宗茂のいる高瀬と誾千代の蟄居先である腹赤村まで糧米を人力車に乗せて運んだ
訳ですから言葉では表せないくらい大変だったと思います。
話は変わりますが、最近、銀河鉄道999や宇宙戦艦大和で私の青春時代、一世を風靡した
松本零士さんが旅立ちましたが、旅立つときこのような言葉を残しました…..。
「遠く時の輪が接するところで、また巡り合える」という言葉が気にかかっていましたが
まさにこの言葉どおり1601年の壇家と樺島家の罷業の死から現代の2007年の3月、406年
の時が経ち、樺島さんと偶然面の坂で出会いましたが、私がこのことを偶然ではなく
必然であると思っていましたが、先日、テレビで松本零士さんの訃報を知ったとき、
彼の言葉で時の輪が接したとき、全く樺島家のことは知らなかった私が、面の坂で
樺島さんと巡り合わせがあったのは、必然であり時の輪が接した瞬間だったんです!
次回(6)は、時の輪が接した瞬間を歴史背景と現代の出会いを交えてお話しします。