先祖の非業の死(歴史)
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- 壇洋一ブログ
明日はもう12月2日になりました。
お正月までのあと一ヶ月もありません。
時間が経つのは早いですねー。
以前、プライべートで私の先祖の歴史について書いていたことがありますが、走馬灯のように、また私が住んでいた旧家のことを思い出しましたのでご紹介します。
私が住んでいた旧家は、歴史を紐解いてみると1620年前後に柳川藩から建ててもらったと聞いています。
何で?と思われる方も多いと思いますが、建ててもらうことになった流れを簡単に説明します。
時は1600年、関ヶ原の戦いで西軍についた立花宗茂公と、その正室である誾千代は、加藤清正公の執り成しで、柳川城を開城し、宗成公は今の熊本県高瀬町に、誾千代はそこから4キロ程の荒尾近くの腹赤町に蟄居することになりました。
その当時、大庄屋であった椛島家と壇家は、人望ある殿様と姫様の不運を悲しむと同時に恩義に思い、蟄居まで荷物の運搬なども付き添ったと聞いています。
蟄居生活以降も、椛島と壇は定期的に百姓になりすまし米や塩などの生活に必要な物資を、関所を搔い潜り高瀬と腹赤町に運んでいました。
蟄居先までの距離は30数キロで、百姓になりすました両家の息子たちは、警備が手薄な夕刻以降に出発して南関道を通って宗成公の高瀬村、誾千代いる腹赤村へ向かいましたが、徒歩では荷物を持たなくて7時間ほどかかる行程です。
誾千代のいる腹赤村で休息をとり、帰りは物資は無いので疑われこともありませんから、平野を通る三井道を通って帰路についたと言われています。
時は1601年の7月頃、いつものように百姓に成りすました二人は量米を人力車に乗せ運んでいましたが、関所番(松風の関所・今の南関の近く)に密告した者がいたのか⁈ 捕らえられてしまいました。
関ヶ原の戦いの数年間はまだ不穏な空気は世の中には漂っていたころです。
柳川藩に新しく入ってきた田中吉政公も不穏な空気が漂う領内のことが気がかりだったのでしょう。
この地の三豪族と言われていた大庄屋である両家の椛島家と壇家が量米運搬で捕まったことはその当時は大事件でした。
関所で捕らえられたことは、すぐ駿馬により田中吉政公に知らされました。
その翌日、量米を運んだ両当主の長男は、今のみやま市山川町に入る面の坂(別名:首切り坂)で磔刑に処せられました。
思わずこのような刑をうけることになり、道半ばにして無念だったことでしょう。
亡骸は村民は連れ帰ったと聞いています。
尚、椛島家・壇家の親族縁者も同時に打ち首や切腹等により量刑に緒せられました。
昔の資料によると壇家で10人ほどが殺されました。
それで、両家は断絶しましたが、その当時、乳飲み子がいたらしく、その子はこっそり近くの村の知り合いに預けられ難を逃れたそうです
。
両家の当主、息子、親類縁者の非業の死は、すぐ立花宗宗成公と誾千代にも知らされました。
それ以降、量米や生活必需品等の物資は誾千代姫はその翌年、病死か自害かは不明ですがこの世をさりました。
立花宗成公は、誾千代の死を知り、失意の中、もう一度再起(お家再興)を願い家臣と共に京の都に旅経って行きました。
京では、のちのち西国一の武将と言われた宗茂のまじめで人望ある人柄は徳川家康の目にも止まることになります。
そして、徳川家康の息子であるのちに二代目将軍 秀忠の教育を任されて、徳川家の重臣の一人になる訳です。
それから時間が経ち、1620年(元和6年)、秀忠の命により、宗成の柳川への再封が決定しました。
関ヶ原の戦いで西軍側についた負け武将で、このように改易された大名のうちで唯一、元の領地に大名として復活できたのは前代未聞だ
ったようです。
1621年2月に柳川の地に戻ってきました。
戻ってきた時には領地内の多くの村民が集まり出迎えたと言われています。
柳川城にもどった宗成公は椛島と壇家の非業の死でお家断絶になったことを忘れていませんでした。
すぐさま両家の者をお城に呼び出し、永大にわたる大庄屋の職を与えることになります。
それ以降、柳川藩は400年にわたり栄えてきましたが、両家も藩と村民をつなぐ大庄屋として栄えたようです。
私が住んでいた旧家には、文献、籠や槍、刀、鍔、他にもいろいろありましましたから郷土史研究家や古物商もときどき来ることもありました。
子供のころの私は、家の中に金目のものはないか?普段は行かない屋根裏部屋の物を持ち出し小遣い銭稼ぎをしたこともありました。
早い話が悪ガキだったんです。笑
一つだけ自慢できることは、敷地周りは3000坪ほどの広さがあり、しかも田舎でしたから朝の目覚めで車の騒音とかの経験はなく、建物周囲の大きな木に年中小鳥が来ますから、小鳥のさえずりで目覚めます。笑
「何でこんな田舎なんだ!」とも思っていましたが、いやいや待てよ、、、「騒音公害もなく鳥の声で目覚めるなんて幸せかな?!」とも
思うようにしました。
伝え聞いたこの家は家のどこかが柳川のお花(柳川藩の別荘)と同じような造りのところがあって、柳川藩から建ててもらったと言いております。
今は、私の実家はなく空家状態でそのまま置いておくと事故があるといけないので、20年ほど前に解体してしまいましたが、いま思うと惜しいことをしてしまいました。
樺嶋・壇大庄屋物語
http://shofuku.nobushi.jp/dansyouya.html
上記は旧家の画像です。
多少、改築工事はあったかもしれませんが、1620年頃に建った家です。
敷地のどこかに建物があり罪人を一時的に入れる牢屋があったとも聞いていますが解体したのでしょう。
また、時間があるときに書いてみます。
http://shofuku.nobushi.jp/dansyouya.html