壇家歴史にまつわる疑問点 その2

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壇洋一ブログ
1601年頃に前述しましたが、量米等の運搬の途中、松風の関所で捕まり、田中吉政公の逆鱗にふれ
翌日、当主と息子他、11人の親戚縁者が処刑されましたが、壇家の当主及び息子や親類縁者のお墓が
ありませんでした。
スクリーンショット 2023-03-02 121605 田中吉政公銅像
当然、罪を犯した者は、お墓を建てて供養することはご法度だったことは想像できますから誰にも分からない
ように供養したのでしょう。



話は変わりますが、壇家は、西暦700年頃に宇佐八幡神社の神託としてこの地のみやま市瀬高町本郷に
やってきました。

そう考えると、本郷に移住してから今まで1320年間という膨大な期間が経ちます。
本当かなと思い、みやま市の歴史年表で調べてみると間違いないようです。
ですから、関ヶ原の合戦は1600年ですから、壇家の歴史からするとかなり近世になってからだった
ことが分かります。
image4 みやま市の量米運搬の出発点近く
ただ、長い歴史の中でも1601年の壇家処刑が、唯一、クローズアップされている大事件でした。
それ以前の歴史については正確ではなく、古の先祖の記憶に基づくのもであり縁のある神社などには
歴史を紐解く古文書により調べることが可能だろうとは思いますが詳細な史実は不明です。

また、処刑の話にもどりますが、墓石がないのは想像できますが、数年前、本郷村の周囲は広い穀倉地帯
(今の農振地域)になっておりますが、今はどのようになっているのか分かりませんが、そのいたる所に
石の塚が点在したようです。
それが壇家の厳罰に処せられた親類縁者の墓だったのではないか?という人もおり頷けます。

壇家の当主及び妻、息子の墓は無かったのかは不明ですが、昭和35年頃に、村の墓を廃止して村営の
共同墓地を作ったときに、壇家建立の久遠寺にあった墓や他所にあた壇家の墓を解体しましたからお寺に
あったのかもしれません。

以前、郷土の歴史家から連絡があり、中世の壇家のお城(出城)を探していて、壇の墓石の正確な年代が
分かれば、いろいろな史実が分かるそうですが…..
恐らく壇城は敷地内ではなく、数百メートル先の沖の端川沿いの本郷川にあったのではないかと言う人
もおります。

壇家の墓石はお墓廃止の時に久遠寺の石垣に多くの墓石を再利用したそうで、その墓石を調査しましたが
分からなかったそうで、残念ながら今だ所在不明です。

因みに、樺島家の当主と息子のお墓は松延のお寺の人目がつかない場所に今でもひっそりと佇んでいました。
私は壇・樺島家の古の悲運を思い手を合わせてきました。


続きはその3でご紹介