南筑後の歴史…雪峰山の墓所

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壇洋一ブログ
最近、壇・樺島大庄屋物語でお馴染みの樺島さんの末裔の関係者で同じ樺島さんから連絡があり、自宅の近くに立花家のお墓があることを知りました。

その方の自宅は清水山の麓に実家ありますが、以前、九折(つずら)そばの雪峰山を少し登った所にお墓群があるとの情報で、地図を書いてもらい行ってきました。

その場所は、高台なのですが、今は森林の成長と西の平野を望める前面に九州高速道路が通っていて、お墓の位置からは平野を望むことができませんでしたが、確かに古の時代には、風光明媚な場所で、そのような場所だったから柳川市内ではなく、遠く柳川城を望むことができるこの場所にお墓を建立したようです。

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ただ、このお墓は立花宗成公の時代ではなく、関ヶ原の合戦から100年ちょっと
経った1702年、柳川3代藩主鑑虎の遺言で雪峰軒を建てられ隠居生活をここで過ごされたようです。
冬の朝などはこの別荘から眺める峰々の積もった雪が実に素晴らしく、その美しさに感動され、「ここにお墓を建ててくれ」というものであったようです。

この墓所からは正面の遥か西方に柳川城を見ることができ、朝な夕なに我が城を眺めながらひと時を過ごされたのでしょう。
4代目の藩主鑑任公も親の意思を継いで親子二代でこの地にお墓を建てられた。
柳川城の行く末を見守り、今もこの山の麓で静かに眠っておられます。

この場所は、瀬高町と高台の山川町が接し、東側に山がある麓の目立たない場所ですが、このような所に鑑虎公がこよなく愛した終焉の地があるとは驚きでした。

歴史は奥が深いと考える今日この頃です。