壇洋一ブログ

2014.9.9

面の坂に思いを馳せる-2

昨日は中秋の名月でした。

夜遅くテラスにでて月を見上げてみましたが、雲一つない絶好の天気でした。

あまりに美しいので双眼鏡でしばらく見ていました...。

 

お月さんは古の時代でも今と同じように見えていたんでしょう....。

無念の死をとげた壇大炊之介と息子の七郎兵衛は土豪(地方の武士)でした。

捕らえられて、関所の牢屋で月を見たのかもしれません...。

 

立花家と壇・椛島は領地を収める上で切ってもきれない縁があったようです。

磔刑(張り付けにされて槍で刺されること)と斬首刑で無念お死をとげた壇親子の

亡骸を悲しみにくれる村人達が持ち帰ってたと聞いています。

 

それから間もなく立花誾千代姫は病死したとも、井戸に身を投じたとも聞いています。

幽閉先に物資を届けたことに大変感謝をして、小刀をお礼にもらったそうですが、

その小刀は現存しています。

 

幽閉先が高瀬になった立花宗茂は、加藤清正の計らいで不自由しない生活が

できたようですが、それから間もなく江戸に旅立ちます。

 

*加藤清正と縁は、豊臣秀吉の朝鮮出兵で敵軍に囲まれて四面楚歌になった

加藤清正を勇猛果敢に助け出したことから、東軍で戦勝した清正ですが、宗茂を

信頼していて、幽閉後の援助をしていたようです。

 

壇家の歴史ですが、元々は大分の宇佐八幡宮の神託だったそうです。

恐らく歴史書では西暦600~700年頃、今のみやま市に住み着いたようです。

宇佐から持ち込んだ神託の板をとって板橋という性が、祭壇の壇をとって壇という

性にになったと聞いています。

そのように考えれば、壇家は、みやま市の本郷に1300~1400年ほど

いたという事になります。

 

気が遠くなるほどの歴史です...。

 

現在、柳川の古文書館に壇家の資料は保存しておりますが、そこにある系図

では、私で18代目になるので400~500年程度は遡ることができます。

 

 

 

 

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